日本で「最も大切なもの」を守るために

「恥ずかしい歴史教科書を作らせない会」の goo-needsさんの提言を ご紹介します。
日本で「最も大切なもの」を守るために … goo-needs ・・・
■ 「最も大切なもの」
日本で「最も大切なもの」は何でしょうか。
「国益」などではありません。
民主主義国家である以上、日本で「最も大切なもの」とは、主権者である「国民」に他なりません。
特に、国民一人一人の命ほど大切なものはありません。
あえて、「国益」を言うのであれば、その最優先事項は「国民の命を守ること」でなくてはならないと思います。
それを抜きにした利益を国益と呼ぶならば、その国は、民主主義国家を名乗る資格はありません。
■ 60年前まで行なわれた戦争
日本は60年前まで、国民の命など、どうでも良い国だったと言えるでしょう。
当時、最優先におかれたのは、「天皇制を守ること」と、そのための「戦争を遂行すること」でした。
二つ挙げましたが、どちらが優先されたかは、分かりません。
戦争が始まったとき、それを決めた人たちの頭の中は「開戦」しかありませんでした。
1941年11月、「対米英蘭(米国・英国・オランダ)戦争」開戦を決めた東条英機氏らは、昭和天皇に裁可を求めました。
昭和天皇は、「大義名分は如何に考うるや」と東条氏に尋ねます。
この問いに対し、東条氏は「目下研究中にて、いずれ上奏致します」と答えています。
彼らの中には「開戦」しかなく、その理由付けや天皇は、頭になかったのではないかと思います。
当時の最高権力者の天皇さえ頭にないのですから、国民(当時は臣民)の命のことが顧みられたとは、全く思えません。
■ 「備えあれば憂いなし」なのか
今はどうでしょうか。
「最も大切なもの」である国民の命は、本当に最優先で考えられているでしょうか。
「いま、どこかの国が攻めて来たら、どうしますか。」「いま、戦争が始まったらどうしますか。」
こんな問いかけを良く聞いたのは、有事法制が問題になっていたときでした。
小泉首相は「備えあれば憂いなし」と叫びました。
では「備え」として、緻密な有事法制を定め、「戦争放棄」の憲法を変えて「戦争する国」にすれば、「最も大切なもの」である国民の命を守れるのでしょうか。
私は、「守れない」と断言します。
■ 有事法制・ミサイル防衛の愚
いま、有事法制ができてしまい、想定されているのは「武力攻撃事態」です。
「ある国が攻めてきた」「ある国が攻めてくるおそれがある」「ある国が攻めてくると予測される」、こうした場合を「武力攻撃事態」と呼び、多くの人々が戦争協力を義務付けられます。
その人々とは、自衛隊・警察・自治体職員(公務員)とともに、病院の医師・看護師、バスや列車あるいはトラックの運転士、旅客機や旅客船の乗務員、空港・電力・ガス・燃料・電話・携帯電話会社の職員・郵便局員など、大変広範にわたっています。
数千万人という規模であり、まさに「国家総動員体制」です。
こうした国民が、「武力攻撃事態」のとき駆り出されていくのです。
前線近くで、任務に従事することも多々あるでしょう。その命は、守られるでしょうか。
また、有事法制が想定しているのは「地上戦」です。
ある国の舞台が、どこかの海岸にでも上陸して、国内で戦争を開始するというのです。
助けが来るまでの間、沿岸に住む人々の命は守られるでしょうか。
ミサイル攻撃を想定して、今後十数兆円を投じて、MD(ミサイル防衛)システムを導入するといいますが、このシステムは、アラスカと南太平洋上のマーシャル諸島の間の実験でも失敗するほど、役に立ちません。
また仮に将来、より信頼性の高いシステムが構築されたとしても、それをかいくぐるようなミサイルも同時に開発されていくでしょう。
本当にミサイルが飛んで来たとき、国民の命は守られるでしょうか。
どんな場合でも、戦争を始めた時点で国民の命など守られなくなることは明らかです。
■ より危険な「先制攻撃」論
では、受身ではなく米国のように「先制攻撃」ではどうか、と思うかもしれません。
どこかの国と対立すれば、「やられる前にやってしまえ」とばかりに、直ちに攻撃を行ない、徹底して反撃を封じるというものです。
この方法では、もしかしたら一時的に国内での犠牲は防げるかもしれません。
しかしその後、この先制攻撃を禁じた国連憲章に違反する戦争だとして、国連軍が押し寄せるでしょう。
全世界の国々を相手に戦って、国民の命は守れるでしょうか。
仮に米国等をうまく抱き込んで、国連軍の派遣を阻止したとします。
しかし、先制攻撃に対する反感が、テロとなって返ってくることに怯え続けなければなりません。
先の英国でのテロ、スペインのテロ、米国の9・11テロを思い浮かべて下さい。奪われるのは、国民の命です。
さらに実際に、日本が軍隊を持ち、「先制攻撃を辞さない」という立場を取ったとします。
周囲の国々はどう思うでしょうか。絶えず「先制攻撃」を警戒し、緊張は高まります。
逆に、「日本が、やられる前にやってしまえと言うなら、こちらも同じく、やられる前に先制攻撃に出よう」とするのは当然、想定しなければなりません。
互いに先制攻撃を競い合ったとき、国民の命は守れるでしょうか。
「備えあれば憂いなし」どころか「備え」が「憂い」を招くということもあるのです。
ここでも、戦争を始めた時点で、国民の命を守れる保障は全くないのです。
そして奪われるのは、私の命かもしれませんし、皆さんの命かもしれないのです。
■ 国民の命は、戦争や武力では守れない
「最も大切なもの」である国民の命は、戦争や武力では守れません。
国際協調主義に立った「外交努力」によって守っていく以外にないのです。
それこそ、日本の人々が60年前に痛感した真理だったはずです。
それを忘れ、再び軍を持ち、「戦争する国」を目ざして、「改憲」を叫ぶ政治家がいます。
それは、これまで書いてきた通り、国民の命を守る上で「逆効果」に過ぎません。
彼らが描く「最も大切なもの」とは何でしょうか。
「米国の要求」でしょうか。
「軍需産業からの要請」でしょうか。
「単なる懐古主義」なのでしょうか。
なかなか絞りきれませんが、一つだけ言えるのは、彼らが国民の命を「最も大切なもの」とは考えていないということです。
私は、本当に「最も大切なもの」を守るために、私たちを「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」と決意し、「平和のうちに生存する権利」を全世界の人々に保障し、戦争・武力による威嚇・武力の行使について「永久にこれを放棄する」と誓った、日本国憲法を守り、世界に広げながら次代に引き継ぎ、60年間の平和を1年1年、積み重ねていかなければならないと思います。
これが、戦後60年にあたっての、私の決意です。
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)・・・・・・・・・・・
 一人一人の人間が自由を縛われ、「国策」という 凄惨を極めた 「戦争を強制された20世紀」。
 その時代に逆戻りさせないために「国家の暴走を食い止めるブレーキ」、
「権力の横暴を縛る最高規範の日本国憲法」が制定されました。
 「平和と自由」を 守ってくれている 日本国憲法・・・。
 学校ではきちんと学ぶ時間はありませんでした。
「あなたの平和憲法を知っていますか?」 是非、ご一読ください。
 いま、私たちの一人一人が
「20世紀の強制された戦争の歴史」 と、「21世紀のあるべき姿」 を
真剣に 考える時ではないでしょうか。

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